正月に見える家族の原風景
新年早々、家族ねたは少しきついと思いながら、書いてみたいと思う。
実は、正月を家族で過ごせる状態なのは久しぶりなのである。昨年は、入院していたし、三年前は寝込んでいて、正月明けには入院をしていた。家族で、正月らしく迎えるのは、数年ぶりである気がする。
今年は年末から大掃除や買出しのために親父と共同作業したのであるが、親父と会話をするたびに喧嘩をしそうになるのである。親父は、やってほしいことや考えを言葉にしないで雰囲気で感じ取れというやりかたは、昔からなれないものであった。そして、こちらが、雰囲気で感じ取れないと、怒りで表現するというコミュニケーション術はいまだに、慣れないのである。とにかく、さっきカリカリしていたのかと思えば、突然おとなしくなったりするのでまったく予測できない腫れ物のような人間に見えてしまうのである。
要は情で行動するため、理がないのである。
たとえば、大晦日といえば年越しそばを食べることはある意味年中行事である。そこで、大晦日にスーパーに行って家で食べるために、年越しそばを買おうとすると「大晦日に、何でそばを食べんといかんねや」といいだし、大晦日に、年越しそば以外の夕食惣菜を探そうとしだしたのである。そこで「どうしてそばを食べたくないの」と聞いても理由はいわないのである。これはなぜなのかいまだに分からないのである。そういえば、母がまだ生きていたころ(10年前)、大晦日には親父がそばが嫌いだということで、親父のためだけにうどんをゆでていたことを思い出した。だから、そばがいやなのかなと思うのだがそうでもないのである。三年前は素直に年越しそばを自分で買ってきて食べていたのを見たのである。そのとき私も一緒に食べたものである。では、昨年の大晦日は何を食べたかというと、スーパーの惣菜売り場には年越しそば用の海老てんぷらしか並んでいなかったのは当然のことである。親父は、そのそば用の海老天をおかずに親父はご飯を食べていた。ちなみに、その後、親父は「そば用の海老天はご飯に合わなかった」とコメントしていた。そして、私は結局、一人でそばを食べに行ったのは言うまでも無い。
こんな親父を見て、育った私は、親父を言いくるめることばかり考えてきたのである。なにせ、うちの親父は、人を平気で差別するし、弱いものに対する容赦がまったく無いのである。フェアではないのである。その対象が家族なのである。本来なら親父というのは家族で一番えらいというのは当然のことで、尊敬しないといけない立場であることはよくわかっているんだが、その強いものからずっと、弱い人間として扱いを受け続けるとさすがに、その抑圧は限界が来るものである。弱い人間に、弱さを知らしめるやりかた、弱点を指摘し続ける生活を強要されるとさすがに私も自信がなくなるのである。
私は人から理屈っぽいと言われるが、これはある意味親父のおかげなのである。人との言い合いでは絶対に負けないことが、自尊心を守る唯一の手段と考えて生きてきたからである。最近は親父の無知振りをあからさまにする手法で、親父に苦渋を味わってもらうこともやってきたのである。
実は、この自尊心を守るための手法が、決して今の私にはいい方向へ向かわせない事なのだと考えるようになった。他人の弱点を指摘しまくることが、他人に私への不信感を煽ってしまう、危ない鬼を飼いならしてしまっていることに気づいたのである。
この年末年始、親父が私に突っかかってくる理由は、親父の中で子供に馬鹿にされたくないということがあるようである。私だって親父を馬鹿にしても何の得もしないのである。ただ、人を認めたり尊敬したりすることが無い親父の生き方だけはどう考えても納得できないのだある。
だからといって、60数年間、彼の心の中の鬼を誰も止めなかったのであるならば、私が引き受ける必要もないし、あえて、闘っても何も実らないどころか、私か親父のどちらかがつぶれるまで続けるというくだらないことが起こる事も分かってきた。
なにせ、私も親父も相手を傷つけていることにまったく気づいていないのである。
これ以上の闘いも無駄だし、それよりも、私が親父と同じ事をしないように生きることのほうが今は大事である。今までは、親父に解ってもらいたいという心を捨てきれずに馬鹿正直に反抗してきたが、もうやめである。
自分の立場と、親父の立場の違いだけはっきりさせて、親父の欠点を指摘しないことからはじめて生きたいと思う。
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